われもこうの花は小さい
だから誰も振り向かない
誰も気がつかない
でも、われもこうは
誰かのために 何かをしたいと
ずっと願ってる
私も、障がいのある彼らも
ただの人間
天使でも悪魔でもない
ただの人間
目立たない花だけど
力一杯咲き切りたい
令和4年8月8日 その45「理事長交代・福祉の原点を振り返る」
7月の理事会で理事長交代が決まり、私は理事長を退任し、吉田 直己が新理事長になりました。私は立場を替えて、現場にもっと寄り添い、支援のアドバイスをしていけるようにしたいと考えています。
新理事長は、まだまだ未熟な面もありますが、部長達と協力して、あかねの会の理念を引き継ぎ、知的障がいの人たちの力を引き出し、社会の一員として堂々と生きていける様な支援を続けていく組織として、活動を続けていってくれると期待しています。この「われもこうの想い」は、私個人の目から見た彼らの姿、想いをこれからも書き続け、伝えていきたいと思っています。
今年こそはと、2年連続でできなかった発達支援部の秩父宿泊を計画していましたが、7月に入り、東京都のコロナ新規感染者数が2万人を超え始めたので、残念ながら今年も中止にせざるを得ませんでした。
直前の中止になった為、宿泊のために他の仕事を入れていなかったので、三日間珍しくスケジュールが空きました。あかねの会を始めて以来、プライベートで秩父に行くことはなかったし、お正月も日曜日もなく働きづめだったので、体調も本調子ではなかったし、早めの夏休みを取ろうと一人で3日間、秩父で過ごして来ました。
秩父武甲山
山の緑、空の青、白い雲を眺め、ゆったりしましたが、全くだれとも話をしないで三日間、過ごしたことなどなかったので、最初は寂しさも感じました。
カフェ「天空のおやき」からの風景
自分のして来たことを振り返り、これから、すべきことを一人かで静かに考えるには、とても良い場所と時間でした。
神流川
田村一二(いちじ)先生の「忘れられた子ら」「百二十三本目の草」「石に咲く花」の本もゆっくり読むことができました。特殊教育の仕事に入り、先輩から勧められるままに、本を買い込み読んだはずだったのですが、とても読み進むにつれ新鮮な気持ちになりました。
「頭をコツンと叩いた」という表現が至る所にあり、今の虐待防止法が整備された社会では、このやり方は批判されてしまうのだろうなと感じましたが、障がいのある子どもたちへの想いが溢れていて、叩いたからいけないなどというレベルを超えた、知恵遅れと呼ばれた子たちを、本気でこの社会で認められる人に育てようという気持ちが深々と伝わってきました。
昭和20年より前の戦争時代に、田村先生の考えに賛同したある会社の社長さんが、田村先生の4人の卒業生を入社させ、「特異工場」を作り、社長自ら彼らと生活を共にして、製薬会社の仕事を彼らが見事にこなすまでに成長したことも書かれていました。
今で言う特例子会社だと思いながら読んでいましたが、いえ、それ以上の、生活を共にしていろいろなことを体験できる環境を作り、仕事のできる人たちにまで育てたのだということに、驚きました。
社長さんと一緒にお風呂に入り、一人が社長さんの背中を流してくれ、後の人たちもやりたくて、右手、左手と手分けして、社長さんの体を洗ってくれたそうです。お子さんのいない社長さんは、極楽の様に感じたと書かれていました。
鼻水を垂れて、きちんと話もできない知恵遅れと言われていた彼らに、一人の人として接していくことで、彼らがここまで育ったということ、しかも、日本が敗戦になりそうな戦争中に、ここまでした人がいたということに驚きました。戦争末期に大阪大空襲に遭い、工場が全焼し、泣く泣く4人の障がい者を家庭に帰さざるを得なくなったそうですが、終戦2年後に約束通り工場を再開し、寮を整備した上で、障がい者たちを呼び戻したそうです。
80年経って時代が変わっても同じだと思います。今の方がまだ差別も昔ほど激しくなく、平和な世の中で、全くやりやすい筈なのに、ここまでできていないのはどうしてでしょうか?どんな障害があろうと一人の人間として、大事に育てようとするその気持ちが本物で、実行できたからなのでしょうか?今の時代と何が違うのでしょうか?
人を人として大切に慈しみ、本気で関わることができた力の源は、何なのでしょうか?
一番大切なものは何なのか?それを、次世代に伝えることが一番大切なことではないかと田村先生の本を読んで感じました。私の残された時間にやるべきことが、更に明確になった気がしました。
吉田 由紀子