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“われもこう”の想い その90「南雅子さんが天国に行かれました」

われもこうの花は小さい
だから誰も振り向かない
誰も気がつかない
でも、われもこうは
誰かのために 何かをしたいと
ずっと願ってる
私も、障がいのある彼らも
ただの人間
天使でも悪魔でもない
ただの人間
目立たない花だけど
力一杯咲き切りたい

令和6年6月12日 その90「南雅子さんが天国に行かれました」

生活介護事業所のみのりに在籍していた南雅子さんが、5月29日に、お亡くなりになったと連絡が入りました。58才、老衰のためということです。
南さんがあかねの会にやってきたのは、第四みずき寮ができた時です。約20年前になります。2番目の女子寮で、4人の寮生での生活が始まり、いつも笑顔の南さんでした。
まだ、われもこうビルもできていず、ぶどう園のそばの倉庫跡に支援室がある時でした。南さんは、石神井川のそばにある第四みずき寮から、毎日、歩いて支援室に通ってきました。

休みの日は、お父さん、お母さんが待っているお家に帰るのが楽しみでしたが、ガイドヘルパーさんと、いろいろな所に出かけることも、とても楽しみなようでした。
ある時、私がガイドヘルパーになって、南さんと東京タワーに向かって歩いている時、南さんの携帯が鳴りました。
南さんのお母さんからで、休みなのに、家に帰ってこないから心配して、電話をしたとのことでした。
お友達も何人か一緒だったので、南さんは東京タワーに行くことが楽しみで、そのことをお母さんに話していました。電話を代わるよう言われて、私が出るとお母さんは「家に帰ってきてくれないのは寂しいけれど、お友達と楽しく出かけているなら仕方がないです。又、今度、家に帰るように言って下さい」と言って電話を切られました。
私も複雑な心境になりましたが、こんなにあかねの会のメンバーたちと馴染み、楽しんで過ごしてくれているということは、嬉しいことでもあります。
お父さん、お母さんが亡くなられてからは、お正月旅行にも毎年参加して、みんなと楽しく過ごしていました。

土曜日、日曜日の日中一時支援事業ひだまりのカラオケや、音楽クラブにも楽しく参加していました。笑顔で踊ったり、歌ったりしていました。こんなに体が動くのかとビックリするほど、音楽に合わせて楽しそうに、体を動かしていました。


あかね紅白歌合戦の時の様子

でも、55才をすぎた頃から、動きが鈍くなり、摺り足状態で歩くことが増えました。「早老症」と診断もつき、元々、染色体異常があり、ダウン症の場合、一昔前には、20才位と言われていた寿命が、60才位まで伸びたとは言われていますが、いよいよ来たか!という思いがありました。
令和4年12月31日~令和5年1月3日のお正月旅行では、三浦半島に出かけ、車椅子での移動がほとんどでした。ベットではない和室のお布団に寝たり、起きたりするのも一人では難しく、二人がかりの介助が必要でした。それでも、みんなと一緒に食事したり、紅白歌合戦を見たりして楽しんでいました。

そのお正月旅行のあと、知っている人が近づいても誰だかわからなくなることが増えました。今まで書けていた自分の名前の漢字も、横に一本、線が足りなくなったりしてきました。
そして、令和5年の暮れ、筋力が落ち、尿がでにくくなり、尿路感染症で入院をしました。病気は治ったものの、車椅子の生活になり、今までのグループホームでは暮らせない状態になり、介護老人保健施設への入所になりました。最初は「あかねの会に帰りたい」と言っていたそうですが、最後は穏やかに亡くなられたと聞きました。

お兄様にお願いして、分骨して頂き、あかねの会のお墓に入って頂くことになりました。お墓に入るまで、みんなと過ごしたみのりに遺影と共にいて頂くことにしました。

南さんの訃報を聞き、3時間も泣き続けた人もいました。第四みずき寮で何年か一緒に暮らした人でした。家族のような関係だったのだと感じました。
障害があっても、充実した人生を送ることができたら幸せだと感じさせてくれました。
お兄様が、最後に言われた言葉が胸に沁みました。
「障害のお陰で、いつも笑顔で、人を恨まず、仏様に一番近い存在だった」

南さんの生き方が、障害があることをマイナスと捉えてしまい勝ちな今の世の中の考え方を変えていく力になってほしいと願わずにはいられません。

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