われもこうの花は小さい
だから誰も振り向かない
誰も気がつかない
でも、われもこうは
誰かのために 何かをしたいと
ずっと願ってる
私も、障がいのある彼らも
ただの人間
天使でも悪魔でもない
ただの人間
目立たない花だけど
力一杯咲き切りたい
令和6年12月19日 その101「グループホームで共に暮らす喜び①」
私は、昨年の7月から、我が家をグループホームにして、知的障がいの4人の女性と暮らし始めました。
朝6時に起きてきて、「おはようございます」と台所にいる私に声をかけた後、それぞれの部屋と自分の分担の場所の掃除を始め、掃除機の機械音が響き始めます。こうして、いつもの朝が始まります。
自分の分担の場所の掃除が終わると、余裕のある人は、朝食の配膳や、調理器具などの片付けなどを手伝ってくれます。全員が揃い、6時半に、「いただきます」と朝食開始。食べながら、テレビで今日の予定や、ニュースを見ながら天気の確認をしたり、会社までの経路の交通機関のチェックをしたりします。
食後は、各自で自分の食器を洗い、歯磨きや出かける準備をして、7時半過ぎから、元気よく、笑顔で「行ってきます」と出かけていきます。今日もいつも通り、気持ちの良い朝のスタートでした。
振り返ると、知的障がいの人たちとは、私が大学を卒業して、教員として働き始めた時からのお付き合いです。その当時は、知的障がいのある人たちは、中学校を卒業してすぐ働くのが当たり前の時代でした。
何校目かの勤務の学校の練馬区では、卒業後、働くことで、「自立」を目指すということで、殆どの生徒が中学校卒業後、就職して行きました。会社で何かトラブルがあると、当然、卒業した学校に連絡が入り、その度に、元担任である私が会社に出向き、トラブルの対応に当たっていました。
今のように、障がい者の就労支援が法制化されておらず、本人や親御さんは、会社でトラブルになった時、相談するところも無く、結局、退職するしかないというケースが多かったです。唯一の望みの綱が卒業した最後の学校の担任でした。
しかし、公立学校の教員は、同じ学校に何年も勤務することができず、数年ごとに転勤があり、前任校の卒業生からの連絡が来ることになります。勤務時間内に連絡が来ても、勤務当該学校以外の卒業生の所に出かけることは、管理職が許可してくれません。結局、5時過ぎに出かけるか、夏休みなどに会社訪問せざる得ない状況でした。緊急性のある場合には本当に困りました。現任校で、休暇を取って、会社に出向かなければならないこともありました。
そんな経験から、本当に大変なのは、卒業してからの長い人生であること、そこに寄り添っていくことの大切さを身に沁みて感じていきました。そういう想いから、親御さんたちと彼らの卒業後の生活に寄り添うための会を立ち上げることになりました。
平成13年に、「あかねの会」としてNPO法人化し、一番目のグループホームを作りました。私は、教員との二足のわらじだったので、グループホームは、雇用した職員に任せながら、就労支援を続けました。
親御さんが入院されたり、亡くなられたりして、グループホームの需要は増え、人間の赤ちゃんが生まれるまで10ヶ月かかるのに、グループホームは需要が多く、もっと速いペースで誕生していきました。3年で4か所、6年間で8か所開設というスピードで増えて行きました。私も定年まで、5年を残す段階で、あかねの会の組織が大きくなりすぎて、これ以上、兼職は無理という状態になったので教員を辞職し、あかねの会の活動に専念しようとしました。
ところが、練馬区の方から1週間に一回でもいいから、就学相談の仕事を手伝ってほしいと言われ、週に一回ならと引き受けてしまいました。ところが、次の年に心理職が辞めてしまったのでということで、結局、週4日6年間も区の就学相談に携わることになり、忙しさに翻弄される状態になってしまいました。
でも、今、振り返ると、就学の時に携わることは、障がいを持ってこれから生きていく子どもたちの関わり方を考え、親御さんの相談に乗る大事な仕事だったので、初めての学校教育をどんな環境で、どんな関わりを持つかということが、子どもたちのその後の成長に大いに関係することを身に沁みて感じました。
就学相談の仕事は、あかねの会で、「切れ目のない支援」を目指さなければならないという根幹の考え方を作り上げていく大事な経験になりました。
しかし、今から18年前に、あかねの会は、社会福祉法人化し、15年前に、第一、第二さつき寮の建築と、われもこうビル(就労支援室)の工事が同時に始まりだし、就学相談の仕事も辞めざるを得なくなりました。
われもこうの想い102に続きます