われもこうの花は小さい
だから誰も振り向かない
誰も気がつかない
でも、われもこうは
誰かのために 何かをしたいと
ずっと願ってる
私も、障がいのある彼らも
ただの人間
天使でも悪魔でもない
ただの人間
目立たない花だけど
力一杯咲き切りたい
令和5年11月21日 その76「あかねの会創立記念日(11月15日)に想う」
われもこうは目立たない花だから、天子様が花摘みに出られても、摘んでもらえず、「私も摘んで下さい。あなたの役に立ちたい」と言ったことから、「われも役に立つことを乞う」〜「われもこう」と名付けられたと言われています。
あかねの会が、団体あかねの会を平成6年11月15日に立ち上げ、平成13年に特定非営利法人になり、5年後、社会福祉法人化する時に、この逸話に出会いました。
私はこの逸話を知り、あかねの会の理念として、障がいのある人たちも、誰かの役に立ちたいと願っている、誰かの役に立ち、生き甲斐を持って生きてほしいと強く想いました。
そして、この想いを「われもこう」の歌にしました。
われもこうの花は 小さい 小さい
われもこうの花は 目立たない
だから 誰も振り向かない
だから 誰も気が付かない
でも われもこうは 誰かのために
何かをしたい 何かの役に 立ちたい
ずっと そう願ってる
ずっと そう願ってる
私も 誰かのために 何かをしたい
私も 何かの 役に立ちたい
とても 小さくて 目立たない花でも
力一杯に 咲いて 咲いて
咲き続けたい
あかねの会は、障がいがあっても、誰かのために何かをしたい、何かの役に立ちたいという生き方をしてもらえる様に支援していきたいということを理念として掲げてきました。
それを具体化した言葉が「障害がい者を納税者に」です。
彼らも当たり前に働いて、社会の一員として生きる、それを支援していくのが、あかねの会の役目だと思い、あかねの会の活動を続けてきました。
私の想いに、あかねの会のメンバー達は、すぐに一生懸命に答えてくれようとします。健気だけど、褒められたい一心で、何か、まだまだ本物ではないと感じてしまいますが、これも一つの段階でしょうか?
だから、ひねくれた見方をすると、
「われもこう」は、誰が見ていなくても、一心に咲き、持分を果たして枯れていく‥
だのに、人間の勝手な想いを、われもこうに重ねて、人間の欲をわれもこうの花に託して表現している
とも言えるのではないかと、ずっと疑問を持っていました。
人としてどう生きるのか?
花の様に誰が見ていようと、見ていまいと、自分の持分を咲ききり、枯れていく
それが本来の在り方ではないのか?
自然に学ぶことは大きいと思っていました。
でも、人は、心を持っています。
自然界の生き物達と同様な生き方でいいのでしょうか?
「共に生きる人たちのことを考えて生きる」ということは、人にしかできないことだとも言われています。
人が生きるということは、自分のことだけではなく、他の人たちのことを考えて生きていくこと、それが尊いことと、仏教では説いています。仏様、弥勒菩薩様は、人間を救うために存在しています。
キリスト教でもそうでしょう。「汝の敵を愛せよ」この言葉に表現される様に、人を愛すること、慈しむことを説いています。
人間性として考えると、自己中心の考え方をする人は、まだまだ未熟ということになります。
彼らの様に、天真爛漫に、褒められたいから、誰かのために、何かをする段階も、まだまだ未熟でしょう。
誰かに認められようが、認められまいが、本当に誰かのために何かをすることができる人が、初めて本物の生き方をしていると言えるのでしょう。
しかし、同じ想いを持って、共に仕事をしていくことの難しさを感じます。
いろいろな考え方、感じ方をする人たちが、共に活動することも非常に大切ですが、目指す方向性が正反対だとどうなるのでしょうか?
やはり、同じ方向に船の羅針盤をしっかり向けて進めていかなければ、大きな目標は達成できないでしょう。
今、この時代に障がい者と言われている人たちが、(時代によって、障がいの概念も違うことをしっかり捉えて、まず、一人の人として捉えることが前提ですが)社会の一員として役割を果たし、誰かのために役に立つことをして、生き甲斐を持って生きていくことができる様に、支援していくことが、あかねの会のやるべきこと、目指していくこと、また、支援する側もたとえ障がいがあってもなくても、やはり誰かのために役に立つことをして障がいのある人達と共に生き甲斐をもって生きていかなければと、あかねの会の創立記念日に当たり、再認識しました。
吉田 由紀子