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“われもこう”の想い その22「あかねの会が誕生して25年」

われもこうの花は小さい
だから誰も振り向かない
誰も気がつかない
でも、われもこうは
誰かのために 何かをしたいと
ずっと願ってる
私も、障がいのある彼らも
ただの人間
天使でも悪魔でもない
ただの人間
目立たない花だけど
力一杯咲き切りたい

令和3年6月2日 その22「あかねの会が誕生して25年」

令和2年度の実践録の巻頭言に、あかねの会ができて25年目の思いを書きました。あかねの会の成り立ち、目指しているものについて知って頂けたらと思い、そのまま今回、ここに掲載させて頂きます。

~あかねの会が誕生して25年~

今年の11月で、あかねの会誕生から25年経ちます。
振り返れば、今から25年前の平成8年11月15日、光が丘の区民センターの一室を借り設立総会を行い、団体あかねの会が誕生しました。

私が光が丘第三中学校の特別支援学級の担任として卒業後の就職や進路に取り組んでいる時、卒業後のことを心配したお母さん数人が、会を作って、卒業後の支援を引き続きしてほしいという要望がありました。子供を寝かせてから、何回も夜集まり話し合いました。

その中で、一番熱心に関わって下さっていたT君のお母さんMさんが、8月に、40歳の節目健診を受けに行かれました。どこも悪いところはなかったと、わざわざ夜、私の家に報告に来られました。その直後、お父さんから、実は、肺ガンが見つかり、半年の余命宣告を受けたとのこと。本人には言わないでほしいと切に頼まれました。
ただ、日に日に体力も落ちてきているのに、家でデザインの仕事を続けていらっしゃいました。
11月15日、光が丘区民センターの部屋が予約できたので、Mさんにあかねの会創立総会の司会をお願いしました。

Mさんが描いたあかねとひよこの絵

卒業後のわが子の人生を託せる場として、お母さん達の悲痛な願いの元、あかねの会は誕生しました。
その後、Mさんはホッとされたのか、病状が急に進み、入院されてしまいました。何回かお見舞いに伺いましたが、2月のある日、今振り返るとそれがMさんとの最後の対面でした。その時、言われた言葉は、障がいのある我が子への最後の願いが詰まったものでした。

「先生、Tが、就職して、初月給をもらうまでは死ねません。いや、ボーナスをもらうまでは安心できないですね。」

と言われたのです。
わが子が、自分がいなくなった後も、自分でお金を稼ぎ、自立して生きていってほしいという願いを持ち続けて旅立たれました。私は、お母さんの手を握ってその願いを必ず実現させますと約束しました。しかし、お父さんが働きながら、T君を面倒見て行くのはとても大変で、光が丘三中の卒業を待たずに、施設入所することになりました。でも、私は、お母さんとの約束を、何とか果たそうと、入所先の職員さんと連絡を取り続けました。地域にグループホームを作ったら、T君を地域に帰せるという職員さんの言葉に、グループホームを作って、T君を地域に戻して、お母さんの願いを実現させようと思いました。

平成13年から、今まで社会福祉法人にしか設立が認められなかったグループホームが、NPO法人にも認められるようになることになりました。
教員の仕事の傍ら、NPO法人の設立に向け奔走しました。会社を解雇されてしまった人達のために、自立訓練室を作り、就労支援は始めていました。既にグループホームの母体である就労支援をしているので、NPO法人を立ち上げればグループホームを造ることができるという方向性が見えてきました。
そこでNPO法人認可をすすめると同時に、グループホームの建設するための土地探しを始めました。障がい者が近くに暮らすなら、土地は売れないなど言われたり、いろいろありました。何とか20数坪の土地を見つけ、購入する段取りになりましたが、NPO法人では、銀行からお金を借りることも不可能で、会員さんからお金をお借りして何とか土地購入にたどり着きました。建築費は4分の3都の補助金で賄うことができました。

第一みずき寮の写真

皆さんの力で出来上がったということから、皆で築いた寮〜皆築寮〜みずき寮と名づけました。
初めてのグループホームを立ちあげ、運営に追われながらも、第三みずき寮を立ち上げてから、T君を引き取ることができました。第三みずき寮で、私自身が彼の面倒をみようと思い、学校を辞めて第三みずき寮の世話人になりました。

施設から引き上げてきたT君は、全ての生活面でやり直さなければならない状態でした。トイレトレーニングだけでは改善されなかったので、私が寮生の夕食を作りながら、彼に腹筋運動をしてもらったりしました。また、野菜の皮むきも手伝ってもらいました。トイレの問題もかなり改善したので、上手になった皮むきの仕事で、就労できるようになりました。刑務所へ、皮を剥いた野菜の納入の仕事をしている会社で、一日中人参の皮を剥く仕事をします。

会社が、労働基準監督署に出した最低賃金除外が認められ、五万円の初月給でしたが、お母さんの仏前に「もらったよ」と、手を合わせてT君がお給料を置いた姿は、今でも目に焼き付いています。10年かかったけど、やっとお母さんとの約束を果たせたという思いでした。

その後、入札に落ちたということで、会社が倒産してしまい、T君を含め3人の人たちが職を失い、あかねの会の就労支援室に引き取りました。又、T君が野菜の皮むきに取り組めるようにと、A型事業としてお弁当屋とレストランを始めました。でも、2、3店舗では、一日中皮を剥くほどの野菜の需要はなく、もっとレストランを増やさなければと思っていました。でも、T君に人参の皮むきをやろうと話すと「やらない」という答え!

いま、T君は、さをり工房でさおり織りに取り組んでいて、「さをりがいい」とのこと。

さをり織りの写真

お母さんの「就労」という夢は、それはそれで、叶えなければならないと思ってきましたが、今、T君が嬉々として取り組んでいる物があるなら、「就労」という形をとらなくても、充実した人生が過ごせるならそれでいいのではないですか?と、われもこうビルの屋上から見える富士山に向かって問いかけました。

Mさんのお名前が富士子さんというので、われもこうビルができてからは、何かの度に、富士山に向かって話しかけたり、問いかけたりするようになりました。何かのたびにT君と一緒に富士山を見ながら、「お母さんが見ているよ」と話をしています。

富士山の写真

今後も、知的障がいのある人たちが、自分の持ち分を発揮して、誰かのために、何かの役に立つことをして、充実した人生を送っていけるよう、あかねの会が活動を続けていかなければと、設立25年目の節目で決意を新たにしました。

吉田 由紀子

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